【趣旨】
大阪商工会議所では、初代会頭・五代友厚が大久保利通、渋沢栄一など幕末・明治の政府・財界人と交わした書翰や五代のかかわった事業に関する書類など五代家に保存されていました約6,000点の書翰・書類の寄贈を受け「五代友厚関係文書」※として所蔵しています。
2021年6月、五代友厚はじめ明治以降大阪で活躍した企業家105人を展示する「大阪企業家ミュージアム」(運営:大阪商工会議所、館長:宮本又郎大阪大学名誉教授)が創立20周年を迎えたのを記念して、お問合せの多い文書22点をウェブ上に公開いたしました。
同文書を通して、五代友厚の事績を広く発信するとともに、明治期の経済史研究にぜひご活用いただきたいとの思いから、順次公開文書を追加しております。
今回は「五代友厚関係文書」の翻刻に取り組んでいる神戸大学・髙槻泰郎准教授を中心としたメンバーによる解説付きで5点の書翰を追加公開いたしました(追加文書はタイトル横に を記載)。ぜひご閲覧・ご活用ください。 (2025年2月、掲載書翰・書類数 58点)
※「五代友厚関係文書」収録資料については、下記サイトにて検索することができます。
https://www.justice.co.jp/kigyoka/godai_letter_search.php
【閲覧について】
左側の文書画像をクリックすると、文書全文をPDFでご覧いただけます。
右側説明文最後の をクリックすると、冒頭の一覧に戻ります。
なお、PDFデータはモノクロ撮影のデータです。複数のページに分かれる場合、ページの末尾と次ページの最初が重なるように撮影をしています。
【二次利用(掲載・放映等)について】
資料を複製使用する場合は、あらかじめ申請書を提出し許可を受けていただく必要があります。手続きにつきましては、下記事務局までご連絡いただきますようお願いいたします。
大阪商工会議所 大阪企業家ミュージアム
〒541-0053 大阪市中央区本町1-4-5 大阪産業創造館B1F
TEL 06-4964-7601 FAX 06-6264-6011 |
<薩摩藩士時代>
「欧行要集 第二 慶応1年」
元治2(1865)年3月22日、五代友厚を含む19名の薩摩藩士が英国に向けて旅立ち、五代たち4名はヨーロッパを視察、15名は英国に留学した。本史料は、五代が慶応2(1866)年2月9日に帰国するまでの間の購入記録のほか、「建言ケ条草稿」として、五代がロンドンから薩摩藩主に送った十八箇条からなる建言の草稿が記載されている。その一箇条として「『商社合力』(株式会社などのジョイント・ベンチャー)にあらずば鴻業難立事」とあり、家単位で事業を行うのが当たり前だった江戸時代にあって、家を超え、多くの資本・人材を結集して事業を実施する「商社合力」は、当時の日本にはなかった新たなビジネスモデルであり、五代の慧眼であるといわれている。 |
<薩摩藩士時代>
「廻国日記 慶応1年」
慶応1(1865)年7月24日~同年11月3日(和暦)のベルギー、プロイセン、ドイツ、オランダ、パリに滞在した約3か月余の滞在記録。日々の視察状況が記されている史料。 |
<薩摩藩士時代>
「外国条約一件 慶応1~2年」
フランス国籍だが領地はベルギーにもつコント・デ・モンブラン伯爵と交わした貿易商社設立の契約書。薩摩藩とモンブラン(ベルギー・フランス)が合弁で商社を設立し、薩摩藩が軍艦や諸機械を輸入するだけではなく、日本の産物の輸出や外資を活用し大阪・京都間に鉄道を敷設するなど薩摩藩だけでなく日本全体、そして世界を取引相手とする総合商社を構想した非常に壮大な計画であった。しかし、明治維新によりこの契約は実現しなかった。 |
<明治新政府役人時代>
「五代友厚への辞令」
国際経験豊かな五代は慶応4(1868)年、明治新政府から外国事務掛に任ぜられ外交の一端を担うこととなった。大阪で活動する五代に、明治2(1869)年、会計官権判事として神奈川(横浜)在勤辞令が出され、その後、官を辞することとなる。
①徴士参与職外国事務掛辞令 慶応4年1月23日 (43)
②徴士参与職外国事務局判事辞令 慶応4年2月20日 (45)
③外国官権判事 辞令 明治1年5月4日 (46)
④外国官権判事被免 辞令 明治1年6月5日 (47)
⑤大坂府権判事並に外国官権判事兼勤 辞令 明治1年6月5日 (48)
⑥大坂府判事辞令 明治1年9月19日 (49)
⑦神奈川県在勤辞令 明治2年5月15日 (51)
⑧辞職受理 辞令 明治2年7月 (52)
⑨退職に付晒布二疋金七百五拾両下賜 辞令 明治2年7月4日 (53)
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<明治新政府役人時代>
「英公使パークス襲撃事件謝罪文 草稿 五代友厚自筆 明治1年2月」
五代は、慶応4(1868)年1月23日徴士参与外国事務掛に任ぜられ、同年2月20日徴士参与職外国事務局判事として大阪在勤となる。慶応4(1868)年に近畿では、外国人襲撃事件が続けざまに3回(神戸事件、堺事件、英国公使パークス襲撃事件)おこり、五代はそのいずれにも関わり解決に奔走した。慶応4(1868)年2月30日京都で起こった英国公使パークス襲撃事件にあたり五代が解決方法を提案し、英国はその誠意を認めて事件は円満に解決した。本草稿は五代自身の執筆した解決原案である。 |
<明治新政府役人時代>
「大坂開港規則書 明治1年7月10日」
大阪開港事務に奔走し、五代は「大坂開港規則」の草案を作成した。7月10日にイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、プロイセンの領事等と協議して同規則の承認を得た。 |
<明治新政府役人時代>
「五代友厚宛 小松帯刀書翰 明治1年7月17日」
本書翰が発出される2日前、明治1(1868)年7月15日に大阪は「開港」した。外国官権判事兼大阪府権判事を務めていた五代が、川口運上所で税関・一般外交事務に関与していた時期である。書翰のなかで、維新政府の要職にあった同じ鹿児島出身の小松帯刀は、五代に機械購入を依頼している。幕末期に渡欧し、造幣機械・軍艦・武器購入交渉の経験がある五代は、まさに適任であった。 |
<明治新政府役人時代>
「大坂外国人居留地之図 明治1年」
五代は、大坂港開港に向けて居留地の整備も進め、明治1年居留地26区画の競売を実施することとなった。 |
<明治新政府役人時代>
「惣難獣戯画・文 明治1年」
明治新政府の役人であった五代の心境が表されているとされる戯画。絵とともに「于時明治元戊辰春の頃、諸国の山奥等より異形の獣生じ、爰彼所に集屯して、萬民を悩ます事甚しく、・・・誰か早く、退治仕給ふことを謹で祈る。」と書かれている。 |
<明治新政府役人時代>
「五代才助復職歎願の一件に付尽力願 明治2年6月」
明治2(1869)年5月24日の五代横浜転勤命令に対して、大阪川口運上所(外国事務局)の役人・馬田佐十郎ら151名の連名で提出された留任願書。長文にわたって五代の功績を述べ、大阪への帰任を嘆願している。 |
<明治新政府役人時代>
「暇言上 会計官判事五代才助より弁事宛 明治2年6月24日」
五代は横浜に転勤したが、明治2(1869)年6月24日に辞表を提出し、同年7月4日に職務被免の太政官辞令が出され、太政官から金750両と晒布二疋が下賜された。 |
<実業界>
「再び仕官の意なし 明治3年3月13日」
薩摩藩士・有川十右衛門宛の書簡に「男子一度決心いたし候上、再び仕官の志は、譬へ朝命と云へども難報」とし、「さながら、わが国に生まれ、我が国をおもわざるにあらじ、また尽くすべきところこれあり、自ら報国の志をも相たつる心得に候」とし、官吏とは違う道で国に報いる決意を述べている。 |
<実業界>
「川渕正三郎宛 岡島長兵衛書翰 明治3年4月12日」
作成者である岡島長兵衛は宛所の川渕正三郎の手代であり、正三郎は金銀分析所を五代とともに手がけたとされる紀伊国屋正三郎である。上京した長兵衛は「内願書」に対する返事を大隈重信や伊藤博文から直接聞こうとしたがかなわず、大蔵省通商司の吹田四郎兵衛から「内願書」に支障があると指摘された点を正三郎に報告している。指摘は「贋金」の買上げ価格や「楮幣御摺立」に関するもので、「内願書」の内容を間接的に窺うことができる。史料には五代の「添翰」による周旋があったことや、「備後町様」すなわち五代へ伝言して欲しいとあることから、五代と紀伊国屋の深い関わりが示唆される。
※本史料の年次について、『五代友厚関係文書目録』(昭和48年/大阪商工会議所発行)では
明治2年となっているが、考証の結果、明治3年と推察される。 |
<実業界>
「五代友厚宛 西園寺雪江書翰 明治4年3月18日」 
差出人の西園寺雪江(宇和島出身)は、五代が在官時代に大阪外国事務局で外務にあたり、明治4(1871)年当時大阪府の権大参事に就いていた人物である。書翰作成当時、西園寺は同じ権大参事の吉井源馬(土佐)との不和で出勤せず引き籠っており、物議を醸していた。書翰では、西園寺のもとを同府典事の竹内綱(宿毛)が訪ねてきて、「物議沸騰」を知った京都弾正台の毛利恭助(土佐)から受けた照会に竹内が内密に返答しておいたことや、竹内が物議収拾のため西園寺に出勤を勧説してきたことが記されている。府庁の内情が「御勘考之一端」として五代に伝えられている点に加え、山内家の陪臣にあたる竹内の土佐出身者に対する心理的距離や、高知よりも宿毛に地理的に近い宇和島出身の西園寺への親近性がうかがえ、竹内の政治的立ち位置も推量できる史料である。 |
<実業界>
「五代友厚宛 渋沢栄一書翰 明治5年7月11日」
渋沢栄一が銀行創設の状況について五代友厚に知らせた書翰。バンク設立は、「三井と小野が協力してお互いに私論を持ち出さなければ成立するだろう。銀行は官民とも有益な組織であり、何とか見込みが立ちそうである」など、当時の状況が分かる。 |
<実業界>
「弘成館規則 明治6年1月」
明治4(1871)年10月に天和銅山(奈良県)、明治7年には半田銀山(福島県)を入手し、所有鉱山は全国26か所にのぼった。これら多数の鉱山の維持管理のために明治6年1月に設立されたのが「弘成館」である。その組織は従来にない近代的経営組織であり、大久保利通は「五代にして初めてこの大事業を遂行し得べし」とその発展を期待したという。 |
<実業界>
「内部外部弘成館員履歴表」
明治6(1873)年2月6日から昭和3(1928)年1月17日までの55年間に弘成館に在籍していた職員録。五代の長崎以来の仲間である堀孝之、岩瀬公圃、永見米吉郎をはじめ、金銀分析所の久世義之介などの名前がある。 |
<実業界>
「税所篤、五代友厚宛 大久保利通書翰 明治7年1月25日」
明治6年政変によって西郷隆盛(鹿児島)・板垣退助(高知)・後藤象二郎(高知)・江藤新平(佐賀)らが政府を去り、明治7(1932)年1月14日には喰違門の変で岩倉具視が襲われるなど、不平士族の不穏な動きが見られた時期の書翰。同年1月17日に出された民撰議院設立建白書に対する大久保の冷たいまなざしが示される一方で、大蔵省内で土佐系を排除し、大久保に近しい鹿児島出身の得能良介・松方正義を要路に据えたことが報告されている。このように五代は、大阪にあっても、そして民間にあっても、大久保らとの関係を通じて中央政局の情報を入手していた。 |
<実業界>
「矩五ケ条草案 明治7年6月」
大隈重信は大蔵卿として政府の財政権を掌握していたが、独断専行のきらいがあり、世の誤解を招いていた。五代は幕末の長崎在勤の頃より大隈とは面識があり、明治政府の役人であった頃は、東京の大隈邸に集まり伊藤、井上、渋沢らとともに様々な案件を討議したという。大久保利通は五代に大隈への忠告書を送ることを依頼した。本書状は諫言の草案である。 |
<実業界>
「特許願 製藍精製の方法 明治9年4月」
製藍業は鉱山業に次いで五代が情熱を注いだ事業であった。当時わが国の製藍は品質粗悪のため、世界市場を制覇していたインド藍が輸入され大きな打撃を受けていた。わが国の製藍業を発展させるために、明治9(1876)年4月に東京府権知事楠木正隆宛に製藍特許願を提出した。五代の製藍業への思いは強く、当時生まれた次女を藍子と名付けた。 |
<実業界>
「勧商局宛綴 五代友厚 明治9年5月31日 一綴 (イ)精藍製造之事業実際取調願書、(ロ)藍製造概算取調書、
(ハ)製藍毎月表雛形、(ニ)所有鉱山明細書」
五代が勧商局宛に提出した藍製造に関する各種書類とともに所有鉱山(天和山銅坑、栃尾山銅坑、和気山銅銀坑、蓬谷山銀鉛坑、半田銀金坑)の明細書が記されている。 |
<実業界>
「朝陽館広告 明治10年1月」
朝陽館の広告とともに、下に「精製藍売捌規則」、右に「精製藍染業伝習生規則」が付されている。 |
<実業界>
「明治10年内国博覧会龍紋褒賞之証状」
内務卿大久保利通が「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもと推し進めた勧業政策の一環として明治10(1877)年、第1回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催された。五代は、朝陽館の藍染料(インヂゴ)を出品し、最高位の賞である龍紋賞が与えられた。 |
<実業界>
「支那沓銀買入の儀に付書付 五代友厚より大蔵卿大隈重信宛 明治11年5月 一綴」
明治11(1878)年5月、大蔵卿大隈重信宛五代友厚書翰の写しか。国内および造幣局における銀地金の欠乏に際して、五代は外国に求めるほかないという現状認識を示している。その上で、中国から「沓銀(くつぎん)」(清国の流通銀で銀塊に近い形状)を輸入すれば相応の利益になると提言した。折しも、五代は昨年来より、藍販売のため上海・寧波に支店を設け、人員を派出在留させており、中国貿易の景況を知悉していた。そこで五代は、大蔵省から政府紙幣の融資を受け、沓銀を輸入する事業を計画したことがうかがえる。 |
<実業界>
「五代友厚宛 渋沢栄一書翰 明治11年5月10日」
渋沢栄一が大阪株式取引所の開設について五代友厚に宛てた書翰。東京株式取引所では総会が開かれる手筈が整っているので、定規(定款)をもって大阪に向かうこと、設立の件は大蔵卿にも伝えることなどが書かれている。 |
<実業界>
「株式取引所条例并大阪株式取引所創立証書、定款、申合規則 明治11年7月」
明治11(1878)年5月4日株式取引所条例が布告され、同年6月4日大阪株式取引所創立願書を提出、大蔵卿大隈重信より6月17日設立を免許される。本書は株式取引所条例、ならびに大阪取引所の創立証書、定款、申合規則(明治11年7月11日)。創立証書には五代をはじめ、鴻池善右衛門、三井元之助、山口吉郎兵衛、さらには渋沢栄一らの名前を見ることができる。 |
<実業界>
「五代友厚宛 北畠治房書翰 明治11年7月22日」
中国から沓銀を輸入する事業について、笠野熊吉に担わせることや、政府が30万円を無利息で貸与することを「隣家」(=大隈重信)と相談して決約したと、北畠治房が五代に報告している。広業商会を経営して北海道産物の輸移出などに従事していた笠野は、鹿児島出身。長崎滞在経験もあり、五代とも旧知であった。北畠の住所は東京飯田町一丁目、東隣が大隈邸(雉子橋邸宅)であり、北畠は大隈のことを「隣家」「隣家先生」などと呼ぶ。このとき五代は大阪在住、大隈重信に近い北畠が周旋して、〈大隈―五代―笠野〉間の調整を行っている。 |
<実業界>
「渋沢栄一宛 五代友厚書翰 明治12年1月10日」
五代友厚が渋沢栄一に大阪株式取引所と大阪商法会議所の状況を伝えた書翰。前年開設した大阪株式取引所が初会以来順調に推移していること。また、大阪商法会議所が竣工し、1月15日に開業式を迎えることなどを伝えている。 |
<実業界>
「米納論 明治13年8月」
明治7年の地租改正により米納が廃止された。諸物価の急騰と財政赤字が大きな政策問題であったなか、この解決の方策として五代が提唱したのが「米納論」である。岩倉具視、黒田清隆によって明治13(1880)年9月の閣議にかけられたが、伊藤博文、大隈重信らの反対にあい成案とはならなかった。 |
<実業界>
「製銅会社創立証書并定款 明治14年」
明治の初め、日本は原料銅を輸出して銅を加工した伸銅品を輸入していた。輸入伸銅品は兵器部品として使用されており、富国強兵を目指す日本では、日本での銅の加工が求められていた。五代は、我が国における製銅事業の重要性に着眼し、イギリスから購入した製銅機械で銅線、銅板を製造する会社を三井・鴻池・住友との合弁事業としてわが国最初の近代的民間伸銅工場を設立した。本書は同製銅会社の創立証書、ならびに定款(明治14年1月31日)。 |
<実業界>
「公立大阪商業講習所設立建言 写 明治14年2月10日」
明治13(1880)年に設立された私立大阪商業講習所を公立にするむねを大阪府知事に建議。建言者には、五代友厚を筆頭に、鴻池善右衛門、平瀬亀之助、広瀬宰平、杉村正太郎など大阪の有力実業家16名が名前を連ねている。知事はこれを受け入れ、講習所は府に移管された。 |
<実業界>
「明治14年内国勧業博覧会二等有功賞 銀鉱製銀等」
明治14(1881)年、第2回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催された。同博覧会に出品した半田銀山の銀に対して、有功賞が与えられた。 |
<実業界>
「五代友厚宛 広瀬宰平書翰 明治14年5月5日」
明治14(1881)年5月、広瀬宰平は東北、北海道巡遊の途中、東京において黒田清隆、大隈重信、松方正義、伊藤博文らに面会し、大阪商法会議所や設立予定の関西貿易社への協力を依頼した。その際の様子を五代友厚宛てに報告した書状。 |
<実業界>
「関西貿易社創立証書并定款 明治14年5月」
明治14(1881)年6月3日、広瀬宰平、中野梧一、藤田伝三郎、田中市兵衛等の有志と諮り、海外貿易の拡張を図るために、関西貿易会社を設立した。本書は同貿易社創立証書、ならびに定款(明治14年5月)。 |
<実業界>
「関西貿易社営業前途之見込議案 明治14年 一綴」
欧米各国への委託販売とアジアへの委託販売・直輸出を事業目的としていた関西貿易社であったが、政府の直輸出政策が断念されたため、事業方針を変更する「営業前途之見込議案」(①海外貿易は中国への輸出にとどめる、②主業は北海道物産の売買のみ、③昆布・海鼠・鰑・椎茸の中国向け輸出と、〆粕・魚油・塩魚・干魚の大坂、東京での販売を行う)が作成された。 |
<実業界>
「太政官第29号御布告 商業議会之儀に付上申他 明治14年6月13日 一綴」
(イ)上申 会頭五代友厚、(ロ)大阪商法会議所議員選挙法決議案、(ハ)大阪商法会議所の履歴及目的
明治14(1881)年6月13日、五代は会頭として太政官29号布告による商業議会設置の儀について政府に上申書を提出し、大阪商法会議所は農商務省が新たに設置しようとする商業議会と異なるものでないことを説き、商法会議所の存続を要望している。本書は同上申書、ならびにともに提出された会議所の議員選挙法決議案と活動履歴及び目的。 |
<実業界>
「五代友厚宛 広瀬宰平、伊庭貞剛書翰 明治14年7月28日」
明治10(1877)年12月18日に創刊して以来経営難に苦しんでいた『大阪新報』は、同12年5月以降五代の手に渡る。五代は代言人の本荘一行を社長に、福沢諭吉の斡旋で『郵便報知新聞』の加藤政之助を編集長に迎えて再出発を図ったが、毎年2,400円ほどの赤字が発生していた。五代は東本願寺を動かして資金援助を受けていたが、事態を収拾することができなかった。本書翰は、そのような状況を見かねた広瀬と伊庭が五代に対し、一時的に住友が立て替えることは可能だが、いずれは抜本的な対策を考えるか、さもなければ休刊するほかないことを助言したものである。五代による新聞経営と住友との関係、そして東本願寺との財政上のつながりが垣間見える書翰である。 |
<実業界>
「大阪商法会議所講習所創業祝詞 会頭五代友厚 明治15年1月25日」
大阪における商業教育の重要性に鑑み、明治13(1880)年11月大阪商業講習所を設立。明治14年2月10日に府知事宛に「公立大阪商業講習所設立建言」を提出、同年夏に公立化を果たし、15年1月25日に大阪府知事臨席のもと開業式が行われた。本書は同式で大阪商法会議所会頭として五代が述べた「祝詞」である。 |
<実業界>
「五代友厚宛 田中市兵衛書翰 明治15年4月29日」
五代は仲間たちと共同で洋銀相場や米相場への介入を盛んに行ったことが知られている。本書翰の主たる話題はそれであり、田中市兵衛は関西における洋銀・米の相場、取引の情勢について報告するとともに、五代の側からの情報を求めている。さらに本書翰には、五代が総監、田中が理事を務める関西貿易社についての記述が含まれる。北海道で税として徴収された海産物を関西貿易社の一手に払下げてくれるよう、五代から安田定則(農商務大書記官・開拓使残務取扱)に依頼してほしいと田中は述べている。明治14(1881)年夏の開拓使事件後における、関西貿易社の活動状況を知るための手がかりとなる史料である。
※本史料の年次について、『五代友厚関係文書目録』(昭和48年/大阪商工会議所発行)では
特定されていないが、考証の結果、明治15年と推察される。 |
<実業界>
「杉村正太郎、田中市兵衛宛 五代友厚書翰 明治15年5月10日」
関西貿易社の総監であった五代が、同社の社長・理事であった杉村正太郎と田中市兵衛に宛てた書翰。関西貿易社は、明治14(1881)年夏の開拓使事件において打撃を受けたが、その後も存続し、北海道における昆布取引などの事業を行っていた。北海道事業だけでは不安定であると考えた五代は、本書翰において、群馬県産生糸を横浜の外国商館に売り込むという新規事業に着手することを提案した。 |
<実業界>
「五代友厚宛 渥美契縁書翰 明治16年12月17日」
東本願寺の役僧であった渥美は、明治15年頃より第十三国立銀行より受けた融資の返済が滞っており、本書翰の数か月前より十三銀行より利払いの督促があった。利子については五代が工面をしていたようだが、それ以降も返済のめどが立たなかったため、五代に対し誰か然るべき人物に口添えを求めている。渥美は同時に土居通夫に書面で依頼もしていることがわかり、五代や土居や大阪財界の人物と東本願寺役僧との財政上のつながりが見て取れる。 |
<実業界>
「本荘一行宛 広瀬宰平書翰 明治18年3月7日」 附・別紙 明治18年3月2日付大阪商船会社頭取広瀬宰平宛兵庫造船局主記科回答
本書翰は、大阪商船会社頭取であった広瀬宰平が、大阪製銅会社社長の本荘一行に宛てた書翰の写である。明治17(1884)年5月1日に開業した大阪商船会社は、西日本の中小船主の寄り合い所帯であり、所有船もほとんどが小規模な老朽船であったため、創業直後は大型船や新舩を購入・建造することが課題であった。
大阪商船会社は、競合する京都の船主・中村新次郎から、当時中村が兵庫造船局に発注し建造中であった大型木造汽船・金龍丸の所有権を取得した。ところが金龍丸の船底に張られたコーペル板(海草や微生物の付着を防ぐための銅板)が10か月で腐蝕したため、広瀬が兵庫造船局に問い合わせたところ、造船局からはその製造元である大阪製銅会社に調査中である旨の回答があった。これを受けて、広瀬は同社の社長である本荘に視察を求めた。重要事案であるため、原本を受け取った本荘が社用箋に写し取らせ、五代に転送したものと考えられる。
本書翰からは、大阪製銅会社の発起人でもあった五代が明治18年初頭の段階まで同社への監督ができていたこと、その一方で五代と同じく同社の創業メンバーでもあった広瀬がこの時期には同社の品質管理を監督できていなかったことがわかる。大阪商船会社社船における重要部品の品質管理に関わる問題は、五代の死後に住友家が再度大阪製銅会社への関与を強め、最終的には明治32(1899)年に買収するに至る背景の一つであった可能性がある。 |
<実業界>
「松方より友厚へ聞取問答」 明治18年9月22日
黒田清隆、松方正義、吉井友実、森有礼、税所篤が相談の上、明治18(1885)年9月22日、事業についての遺言を危篤状態にあった五代から松方が聞き取った。 |
<実業界>
「五代友厚死去通知」 岩瀬公圃 明治18年9月25日
明治18(1885)年9月25日午後1時に逝去、葬儀は大阪で執り行うことが書かれた死去通知。 |
<実業界>
「葬式行列」 明治18年10月2日
明治18(1885)年10月2日、葬儀は大阪で行われた。正午12時30分、中之島の本邸の門前を東へ、淀屋橋南詰を東へ、心斎橋筋南へ、高麗橋通りを東へ、堺筋を南へ、住吉街道より東へ、そして天王寺埋葬地(阿倍野墓地)へと行程が記されている。 |
五代友厚についてもっと知りたい方は、ぜひ、大阪企業家ミュージアムでご確認ください!